沙東すず

以前はメレ山メレ子という名前で「メレンゲが腐るほど恋したい」というブログを書いていました

東京タワー〜悪寒と、朴と、ときどき、お豚〜

忘年会を終えて、メレ子はホームにすべり込んできた若草色のラインの環状線に乗り込んだ。先ほどとはうってかわり、むっとする暖気が体を包む。パーソナル・スペースは5メートルと主張して憚らないディスコミュニケーター・メレ子にとって、年の瀬の終電は苦痛以外の何者でもない。車両の中ほどに大人しく押し込まれつり革に取りつく。30分ほどの乗車時間をどう過ごすか?身体をねじってバッグから文庫本を取り出すのも気が引ける。そもそも「話がつまらない男に尿意を覚える」をパブリックなスペースで読むのもためらわれる。車内の液晶モニタで「ドン・シボリオーネの英語でシャベリオーネ」でも見て見識を深めることにしよう。顔を上げたメレ子の眼に、異なものが飛び込んできた。
壁側に一列に並んだ座席シートの途切れるドア脇の狭いスペース、よくラッシュ時に乗降客をやり過ごそうと身を潜める人がいる場所に、座席シートの横仕切りにもたれかかるようにして若い男が立っている。といっても仕切り自体は男の腰より少し上の高さしかなく、彼の胸から上はいきおい端の座席シート上空を侵犯している恰好だ。実際に端の席には暗緑色のよれたブルゾンを着たおっさんが、ちらちらと男を迷惑そうに見上げつつ座っている。学生らしい男は大きめのスポーツバッグを網棚に載せ、力強く船を漕いでいるのだった。身体をどこかにもたせて眠るにももう少し迷惑にならないやり方がいくらでもあるはずだが、なかば意識が彼岸に渡っているらしい。そのことは間もなく最悪の形で証明されはじめた。だらしなく開いた彼の口のはたに、白く光るものがある。おっさんの領空を侵犯しているアレは何?鳥か、飛行機か、アダムスキー型UFOか。矢追純一ばりに息をつめるメレ子。考えたくはないが、アレは…YO・DA・RE…!!!
おっさんはいよいよ不安そうに何度となく上半身をひねって若者を見上げながら、ずりずりと前に腰をずらしている。いよいよヨドン一号は垂れ下がり、いつ着弾してもおかしくない。メレ子の横のカップルも「ねえアレ、アレだよアレ」とささやきはじめ、車内はざわ…ざわ…と異様な熱気をおびてきているのだった。緊迫したまま10分ほどが過ぎる中、メレ子は焦燥感に駆られながら若者の半生を、電車内で酔いつぶれ粘度の高い液体を分泌するに至るまでの半生を狂おしく想像する。人によだれを垂らせとて、22までを育てしや…彼が大学に入学してテニスサークルで今まで歩んできた道程(失恋二回)をたどり終えた辺りで電車がおっさんの降車駅に着いた。そそくさと降りるおっさんの背中にはあきらかに安堵が滲んでいる。しかしメレ子の焦燥に終わりはこない。新たに乗り込んできた営業系とおぼしき中肉中背のサラリーマンが、よだれに気付くことなく、特別席についてしまったのだ。若者はいよいよぐったりと目覚める気配なく、電車の動きにあわせてよだれ糸が細かく震えている。カップルの男は女の視界を遮るように胸に引き寄せ、緊張に耐えかねて我知らず爪をギリギリ噛みだすメレ子…あーもうダメ、ダメだ、ダメだー

ぽとり

サラリーマンの濃紺のスーツについに架橋されてしまった。フーっと妙な開放感が車内を覆う。何も知らずに視線を宙にさまよわせるサラリーマン…そのまま若者は透明なよだれをズルズルと伝い降り、粘液にとらえられたサラリーマンをゆっくりと捕食しはじめた。これが大自然の理とはいえ、正視にたえない光景である。「温暖化って嫌あね」カップルの女が男の胸に顔をうずめたままささやいている。
サラリーマンが半分ほど消化されたのを見届けてメレ子は電車を降りた。サラ金のネオン看板に照らされて紅く染まったホームには駅員がひとり佇んでいる。メレ子は、自動販売機に硬貨を押し込んだ。両手に缶コーヒーを包んで一人ごちた。「まったく唾棄すべき出来事だ」
「誰がうまいこと言えと」駅員がすれちがいざまに囁いた。