沙東すず

以前はメレ山メレ子という名前で「メレンゲが腐るほど恋したい」というブログを書いていました

生活

家事の動線を変えたりちょっとした棚をつけたり、部屋の壁を自分の好きな色に塗り替えると、以後その場所を使ったり見たりするたびに、脳に一滴シロップを垂らしたような満足が反復する。

元恋人と付き合いはじめたころ、彼は「おれはすずさんみたいに生活を変えるのが苦手で苦痛だったんだけど、生活って自分の好きなようにちょっとずつ変えていっていいんだね!」とやたら感動していた。
当時のわたしの部屋の洗面所で、彼が「すずさん!!」といきなりでかい声で叫んだので駆けつけると、ドラム式洗濯機の前面に吸盤でくっつけた無印良品のバスタオルハンガーを指さしていた。もっとすてきな改装も改造もしているのに、そんなどちらかといえば貧乏くさい部類のひと工夫に心から感動しないでほしかったが、外ではどちらかというとすましている彼のはしゃぎっぷりは愛おしかった。
かつて好きになった人から新しいものを吸収できなくなるサイクルとして、三年はたしかにひとつの節目だと思う。いきなり心変わりを切り出される半年前くらいから「すずさんって無趣味だよね」「おれがいない間、なにをして過ごしているの?」「だんだん人間みたいになってきたなあ」という棘のある言葉が、いきなり投げかけられるようになった。それを別れ話のやりとりの中で責めると「付き合う前はすずさんはやりたいことがたくさんあってついていくのが大変だろうと思っていたけれど、実際に付き合ってみると棺桶作って弾けてたころのすずさんの姿をおれは一度も見てないなと思うことがあった。そうした思いが上から目線になって言動に現れたのだと思う」という言葉が返ってきた。
要するに「もっと創作活動をして、おれに焦りや刺激をもたらしてほしかった」というメッセージ。以前と比べて言いたいことのなくなった苦さはあったが、会社員としての仕事や生活にわたしが感じている充実をもっと想像してくれてもいいと思ったし、彼の創作活動での焦りをぶつけられるのはお門違いにも感じていた。彼のこと恋愛に関する思いこみの激しさ、鬱屈すると大きな決断に酔う性質は知っていたが、ああも急に深く傷つけられることは予測できなかった。新しく好きになった女性はデザイン業界の人で、彼は問われる前から「付き合ったらその人の業績が自分のものになると思ってるわけじゃないけど、」と弁解した。
生活と創作を過剰に切り分けるその態度は創作からも微妙に逃げている気がするけれど、しかしとにかく「生活」のカードがわたしに勝手に与えられ、そしてつまらないものとして他者から切り捨てられたという思いは、それまでの態度と不毛なやりとりにより刻まれた。わたしが手放していた「創作」は耐えがたい苦痛を弔うために舞い戻ってきたが、「生活」も今までとは違い、深手を負って肩で呼吸していた。
新しい家をわたしの居心地のいい場所にするためのタスクが山積みで、まさに「生活」のために体や頭を動かしているとき、わたしにとってかつては大好きだったことのはずなのに、どこかで「無意味」「虚しい」という音が鳴る。向けられた否定がしっかり根を下ろしている。

先日、新しく友達になった人の家に遊びに行った。わたしのそれまでの友人といえばほとんど元恋人とも知り合いで、わたしが荒れはじめてからはよくも悪くも(心があたたまることも確実にあったが、おおかた悪いほうに)友人関係にも影響があり、蛮勇を奮ってでも新しい人間関係を作らなければ水が澱むばかりだった。
ひとり暮らしの家を自分で直しながら住んでいる、そういう人となら安心して「生活」の話をして、過剰に持ち上げられたり貶められたりはしないだろうと思った。
遊びに行った家には、古いままの場所と整然と整った場所が混在していて、改装済みの場所には一般的な間取りやルールを無視した「自分はこう住みたい」という意志が強くあらわれており、見ていて楽しかった。本棚を見ながら話したり、日が暮れていくのを見ながらお酒を飲んでいると、自分の家もこういう場所にしたいし、だれかを招きたいとひさしぶりに自然に思えた。だれかがくつろぐために心を砕いて作った場所に招かれて居ることは、今のわたしには思っていた以上に意味があったので、つい長居して終電まで居座ってしまった。
なにかから立ち直るということは、好きなものを少しずつ手に取り戻すことなのかもしれない。