沙東すず

以前はメレ山メレ子という名前で「メレンゲが腐るほど恋したい」というブログを書いていました

ほんものの顔、ほんものの心臓

今日も今日とてメソアメリカ古代文明のことを考えています(昨日書きなぐった『アステカ王国の生贄の祭祀』のまとめ感想は、あらためて読み返すとどうやらだいぶ間違った要約になっていたので書き直しました)。
メソアメリカ文明の文化や美術といえば、わたしにとって最初の思い出は中学生か高校生のころ、地元の大分での展示に母と行った記憶。生贄の血を注ぎ心臓を入れるための器、しかも手や足の形をした真っ赤なやつがたくさん並んでいて「なんかキツかったね」「うん……」と言葉少なく家に帰った。いま解説文などとあわせて見れば、また違う感想を持てるかもしれない。とはいえ今回の東博の展示は、人身供儀の猟奇的な部分にのみ関心が向きすぎないよう、細心の注意を払っていたように思う。

メキシコ展に行こうと思ったのは、グアテマラに行く予定があるからというのもあるが、佐藤究の小説『テスカトリポカ』を読んでいたから。一昨年の夏、東北への旅行に向かう途中でふとKindleで読みはじめ、気づけば寝る間も惜しいくらい夢中だった。
果てしなく続くメキシコの麻薬抗争から敗走しながらも復讐を誓う元カルテル幹部のバルミロ・カサソラと、手術への重圧からコカインに手を出して轢き逃げ事故を起こした心臓血管外科医の末永充嗣。ふたりがジャカルタで出会うことで、最悪の臓器密売ビジネスが生まれる。
バルミロの祖母・リベルタはインディヘナ出身でテスカトリポカに仕えた神官の子孫であり、カルテルと関わって死んだ愚かな息子にかわって孫たちを育て、生き方を定めるものとしてアステカの神話と儀式を教えた。このアステカ神話と人身供儀が麻薬や臓器売買といった現代のブラック・キャピタリズムと結びつき、やがて日本の川崎を舞台にさらなる暴力の物語を織り上げてゆく。
ウィツロポチトリ、トラロック、シペ・トテク、そしてテスカトリポカ。耳慣れない名前の神々や、アステカ王国のとてつもない富と労力をかけて行われる壮麗な人身供儀。特に、神の化身として選ばれた壮健な青年に対して一年の準備期間を費やして行われる「トシュカトルの祭り」の描写は圧巻で、その世界観に吞まれつつ「なぜアステカの人はそこまでして生贄を必要としたのか?」という疑問が育っていった。
ほんの数か月前、ほんとうに精神が参っているときになにか別の物語で脳を埋めたくて、この小説しか読めない時期があった。それはこの小説が豪奢なまでの暴力に満ちていながら非常に乾いていて、泥のように湿った心情と逆に相性が良かったからだと思う。バルミロの悲願であるはずの対立カルテルへの復讐心もどこか他人事のように乾いているし、末永充嗣に至っては、まさに現代的な悪を体現するかのようなスマートで有能で空虚な気持ち悪さ。

古く高度な文明の遺物を見ると、「もっと良いもの」を目指して伸びていく植物の蔓のような人の心が現代と変わらないことに圧倒される。その「良いもの」を求める心は多くは当時の宗教観と分かちがたく結びついていて、「良いもの」とはこの場合「聖なるもの」なのだけれど、一見すると血腥く野蛮な風習と「聖なるもの」を求める気持ちが、古代の人たちの心の中でどのように結びついていたのかを知りたい。

「アステカ人を分かりたい」という僕の渇望は、つまるところ「宗教的人間を理解すること」あるいは「宗教現象を解釈すること」への渇望であることを認識させてくれた。
(『アステカ王国の生贄の祭祀』序文より)

自分にもそういう気持ちがあるなあ、と考えながら『テスカトリポカ』のことを思い出すと、この小説の中でアステカの供儀は決して暴力を彩るおどろおどろしいだけの舞台装置ではなく、人が何のために生きて血を流すのかを問うための横糸であると感じられる。

おまえたちの小さな胸に手を当ててごらん。どきどきしているのがわかるだろう? そうだ。心臓(コラソン)さ。心臓(ヨリョトル)さ。おまえたちはそれをまだ見つけてはいない。未熟すぎて、神様とつながっていないからね。

おまえたちが神様のために犠牲を払ったとき、はじめて顔がこの世界をきちんと眺め渡すことができる。そして聖なる心臓を見つけるのさ。おまえたちの父親には、それがわからなかった。だけど、おまえたちはアステカの戦士だ。おまえたちは本当の『顔と心臓(イン・イシトリ、イン・ヨリョトル)をちゃんと手に入れて、助け合って生きるんだよ』

『テスカトリポカ』でリベルタが4人の幼い孫たちにかける言葉。いまこの言葉がわたしにとって重く感じられるのは、信じる神がないままほんものの顔、ほんものの心臓を探しているからだろう。